聖書からのメッセージ

 

「旅立ちの時」 

                                                              伝道師補 村上丈子      

       

 

 

 「私たちの本国は天にあります。」 

フィリピの信徒への手紙 3章20節a

 

 

 

  朝晩はまだ肌寒さがありますが、日中は段々と暖かくなってきました。寒さが次第に緩み、草木が萌え芽ぐみ、花々がつぼみをつけ、満開になる春。土の中の虫が動き始め、自然界では生物の活動が活発になるそんな季節です。日本では卒業や入学、就職など、新しい出発の時期でもあります。たとえ自分自身が卒業や入学、就職を迎えるのでなくても、家族の卒業や入学、就職をお祝いすることがなくなっても、桜の花を見上げると、新しい出発、旅立ちの時、そんな思いがいたします。松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭に「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり。」とありますように、人生を旅に例えることもできるのかもしれません。 

 『旅』という言葉を調べてみますと、「住む土地を離れて、一時、他の土地に行くこと。 古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることをすべて『たび』と言った」と書いてありました。詳しいことは忘れてしまいましたが、ある方が随筆の中で「帰る場所があるのが旅だ」と語っておられました。私たちは何処から来て、何処に帰るのでしょうか。聖書の中でヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」と言っています。私たちは何も持たず、小さく弱い者、助けを必要とする存在として生まれました。よく、「神に頼ることは弱い者がすることだ」という言葉を耳にします。その言葉に反感を持つ方も、その通りだと思う方もおありでしょう。反感を持たれることを恐れずに申しますと、私はそのとおりかもしれないとも思っています。誰もが、些細なことにもビクビクして、周囲を攻撃せずにはいられない程、自分が弱い存在であることを忘れているのではありませんか。他人を出し抜いて高くいなければ、誰よりも多く手に入れなければ安心できない程、自分自身が小さい存在であることを誰もが忘れてしまっているのではありませんか。私たちは、この世で積み上げた名声も功績も、この世で手に入れた富も財産も持って帰ることはできません。母の胎の中に、私たちの命を育んでくださった、命の源である神のもとに私たちは帰るのです。誰もが皆、裸で帰るのです。 

ミツバチが花の蜜を集めに行っても巣に戻って来るように、鮭が繁殖の時期になると生まれた川に戻って来るように、私たちの中にも、ありのままの自分を受け入れてくださる神様のもとに帰りたいという思いがあるのではないでしょうか。いつの間にか、自分の名声や功績、富や財産ばかりに、心を奪われている私たちは、神様に背を向けて、帰り道を無くしてしまった憐れな罪人です。神に背く罪を、私たちの代わりに、十字架にかかって償ってくださったのがイエス・キリストです。イエス・キリストがその償いをもって神のもとへ帰る道を開いてくださったのです。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(なる神)のもとに行くことができない」と言われます。イエス様は私たちの救い主、イエス様は私たちの旅を導く助け主です。 

 

  微かな風にも散ってしまう程、弱く小さな桜の花びらさえ、神様の目に忘れられてはおりません。行く先に何があろうとも、イエス様はあなたと共におられます。 




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