聖書からのメッセージ
「あなたは、高価で尊い」
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
イザヤ書43章4節 ( 新改訳)
9月に入りました。夏の疲れが出やすい時節です。「若い頃は、こんなこと、へっちゃらだったのに」と思ってしまうのは私だけでしょうか。そう言えば、若い頃には苦も無くできたことが、だんだん、そんな調子にはいかなくなってきて、「昔は、もっとちゃんとできたはずなのに」と物思いにふけってしまうのは、秋の夜長のせいでしょうか。
聖書の中に、自分に与えられたとげを取り去ってくださいと、神様に願った人のエピソードがあります。その人とは、自分の生涯をキリストに捧げることとなったパウロです。病気や怪我などに苦しんでいたのでしょうか。パウロは「それさえ無かったら、もっと良い働きができたのに」と考えたのかもしれません。「それを取り去ってください」と願うパウロに、神様は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われたのでした。
それにしても、私たち人間の愛は、条件付きの愛であることが多いことに気づかされます。
自分に良くしてくれる相手、自分に益となる相手を愛するがごとく、自分自身に対しても条件をつけて、誇れる自分は受け入れるけれど、思い通りにいかない自分は受け入れたくないのです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」この神様の言葉を、
条件付きの愛に慣らされてしまっている私たちは、高価で尊い何かを差し出すことによって愛されるのだと、解釈してはいないでしょうか。愛することは取引ではありません。神様は、私たち一人一人を高価で尊い存在として受け入れ、私が受け入れられないでいる存在をも、無条件で愛してくださっているのです。神様は、あなたも私も、私たち一人一人が高価で尊い存在だとおっしゃるのです。神様が私たちに示してくださる愛に、条件はありません。見返りを求めず、存在を喜び、尊び、大切にすることが、すなわち愛なのでしょう。
全ての人が、神様の無条件の愛に支えられ、守られ、助けをいただき、力をいただいて生きているのです。神様に祈り、神様からの答えを受け取ったパウロは、「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。
なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言っています。
年を経るごとに、思ったようにはできない事が増えました。神様に祈ることが増えました。
何の苦も無くできると思っていた頃よりも、神様の愛を近くに感じます。
9月に入っても、まだまだ暑い日が続くようです。
周りの方々のことも、ご自分のことも、どうか大切になさってください。
無条件で愛してくださる神様が、あなたと共におられます。